生野銀山について

生野銀山として有名な生野鉱山は大同2年(807年)に露頭が発見され、幕府直轄以降盛んに銀が採掘された。政府から三菱合資会社に払い下げられてからは銅・亜鉛精錬が中心となった。1973年に閉山されるまでの間に高濃度の重金属を含んだ坑内水や精錬排水などが無処理のまま、瀬戸内海側の市川と日本海側の円山川へ流されており、昔から花の咲かない土地、魚の住まない川、イタイイタイ病の症状を患う住民があったという証言がある。

歴史年表

大同  2年 (  807) 露頭発見

天文11年 (1542) 実際に事業を始める

天正  6年 (1578) 銀山奉行所設置

享保元年 (1717)  御奉行を御役所に改め奉行を代官にする

明治元年 (1868)  政府直轄となる

       3年 (1870)  欧式選鉱、精錬器機竣工

   13年 (1880)  銅精錬開始

   22年 (1889)  皇室財産となり「御料局生野支庁」設置

   29年 (1896)  三菱合資会社に払い下げる。金香瀬銅鉱の採掘に努力、キッス精錬法採用

   33年 (1900)  大仙坑開坑。明延鉱山地区調査開始

   38年 (1905)  第二銅選鉱場建設。従来棄却せる捨石を再び選鉱

   42年 (1909)  明延鉱、錫鉱発見。排水を円山川に放流のため、金香瀬沈殿溜を一ケ所増設

   43年 (1910)  神子畑地区稼働中止。明延鉱山で初めて錫鉱採掘される

大正  2年 (1913)  キッス精錬法成績不良のため全廃。青化法採用。錫鉱精錬試験開始

     5年 (1916)  浮遊選鉱操業開始

     6年 (1917)  生野鉱山と明延鉱山分離、

             青化法精錬全廃。金香瀬、太盛選鉱場合併で太盛に一大選鉱所

     7年 (1918)  三菱鉱業株式会社発足

     9年 (1920)  金香瀬鉱産亜鉛鉱石選別のため選鉱場改造

    10年 (1921)   錫精錬全設備完成(神子畑産鉱石 6000t/年処理)亜ヒ酸の製造を始める

昭和 2年 (1927)    尾鉱処理のためシックナー設置

     5年 (1930)   生野選鉱場建設、23000t/月の粗鉱処理能力。久宝ダム(堆積場)堆積開始

     8年 (1933)   明延鉱山神子畑選鉱場鉱滓堆積場3165立方メートルの堰堤築造

     9年 (1934)   優先浮選法採用

    11年 (1936)   タングステンの精錬開始

    12年 (1937)   久宝ダム堆積終了。

                                大仙ダム堆積開始(五月)銅・鉛の分離を比選より全部浮選へ変更

    13年 (1938)   中国侵略が始まり、軍需工業用として銅・亜鉛・錫・亜ヒ酸は全国的に大増産、

              昭和12年~16年で約6倍の増産

    16年 (1941)   大仙ダム堆積完了、宮の谷ダム堆積開始(十月)。

               最初ケーブルで鉱滓運搬、後にエムスコポンプで逆送。

     22年 (1947)  神子畑選鉱所を併せて明延鉱業所として生野鉱業所より独立

       25年 (1950)  太平鉱業株式会社に引き継ぐ

     27年 (1952)  三菱金属鉱業株式会社に商号変更

       29年 (1954)  選鉱過程が混合処理から銅・鉛・錫の鉱種別に変更

     42年 (1967)  操業大縮小、採掘選鉱量は半減

     46年 (1971)  累積赤字3億5000万円に及び、また、金香瀬坑道が崩壊現象をきたし

                                埋蔵量50万トンのうち35万トンしか採掘できず、9月23日に2年後閉山を

                                組合に申し入れる

     48年 (1973)  3月22日に生野鉱山閉山 (『生野イタイイタイ病』参照)

 

 

       49年 (1974)  観光施設「史跡・生野銀山」が開業

平成 23年(2011)   生野銀山文化ミュージアム(生野鉱物館)がオープン

  29年(2017)銀山ボーイズ(GINZAN BOYZ)としてミュージアムのマネキン達がデビュー