カドミウム汚染

渕本さんの手記より

彼女は手記の中には、生野町南真弓の中心を流れる市川には、子供のころから魚がおらず、蛍も飛ばないので物足りなく思っていたこと、それは鉱山の悪水が流れているからだと言われていたこと、鉱山の溶鉱炉からの煙がひどかったので桑や山の木がやられてはげ山になっていたこと、鉱山からの悪水の害を少しでも少なくするために昔から田の水口に面積約一坪、深さ約1.5mの沈殿池が作ってあったこと、水口の方では稲や麦の育ちが悪かったことなどが書かれている(『生野イタイイタイ病』P.99)。

 

 

市川宏三さんの手記より

市川さんが取材した77才の女性の言葉の中に「昔、わだえ(私)らが選鉱場に勤めとる時分でもな、東京本社から調べにくるちゅうと、ドベ(鉱泥)でごてごてした排水溝の手入れで、えらい騒動やった。そぐわえなこと ずっとしてきてな、なんぼ、わだえらが学問に盲でも、あのドベが毒ぐれえなことは、わからいで(分からないわけがないでしょう)」という言葉がある(『生野イタイイタイ病』P.107)。

 

また、山すそをはう排水溝がパイプで川べりの溝に落とされ、その溝は地下にもぐってしまうが水は地下へ潜ったのではなく、新しく設けられた河床の底をくぐり抜けて、人気のない対岸へ渡されており、そこで対岸の山水と混じり、薄められて市川へ放流されているのを見たとの記述がある。(『生野イタイイタイ病』P.108)

 

「わだえらの若けえ時は、学問が発達してなかったから、カドミウムなんぞ知らなんだ。播州の医者が、生野ちゅうとこは、なんぼか仕事のえらいとこじゃのう、よう神経痛でくるぞ、生野の衆もまた、そう思いこみ...」との記述もある。『生野イタイイタイ病』P.113)